このページの先頭です


硫黄島「鎮魂の丘」

1 建設の経緯とあらまし

鎮魂の碑は、島の東北部台地の南先端(南地区)に建立されました。ここは、島の最南端にある摺鉢山を望み、南海岸を一望のもとに見渡せる眺望の優れたところです。また、米軍が上陸した南海岸に面していたため激戦地となった場所でもあり、数々の戦跡が残っています。
都は、碑の建立にちなんで、このあたり一帯の台地を「鎮魂の丘」と名づけました。この丘を緑と花の豊かな聖域にしたいと考え、建築家相田武文氏に設計を依頼し、「鎮魂」と「平和祈念」を水と花で象徴する設計案を得ました。この設計案を元に「鎮魂・平和祈念の塔(仮称)」建立に関する懇談会を設置し、戦没者への慰霊の思いと平和を願う都民の強い決意を、どのようにあらわすかについて種々御検討いただきました。さらに、硫黄島に関係のある諸団体からも同様に御意見をお伺いしました。(竣工:昭和58年8月31日)

基壇と参列広場の写真です
基壇と参列広場

(1) 基壇と参列広場
  小笠原村硫黄島字南一番の粟津壕上の台地13,100平方メートル。この丘のほぼ中央に基壇と参列広場を設け、その周辺を花と緑で覆っています。この基壇には、中心に「鎮魂の碑」を置き、それとの一体性を保ちながら、同一線上の前後に一つずつの碑石が設置されています。また、「鎮魂の碑」を守護するものとして基壇の四隅に高さ3メートルの柱が建てられています。
  300平方メートルの参列広場一面に、いなだ石が敷き詰められ、中央軸線上に浅い導水路が掘られています。パーゴラが2か所建てられ空との境を示し直射日光を遮蔽しています。

(2)水と花
  この島で散ったすべての方々が水の渇きを訴えたといわれています。鎮魂への思いを「水」で、平和祈念を「花」で象徴し、献水すると水盤の水があふれ、参列広場中央の導水路を伝わって後方の花壇に注がれます。

(3)戦跡
  基壇の地下に粟津壕(総延長約630メートル、隊長・粟津勝太郎大尉にちなんで命名)があり、散歩道には南地区戦闘指揮所跡があります。参列広場の両側に陣地跡が2か所と砲弾痕のある石が保存され、それぞれに献花台が設けられています。

2 慰霊碑

鎮魂の碑の写真です
鎮魂の碑

(1)鎮魂の碑
  一辺が1.2メートルの立方体の黒御影石
  基壇中央に一辺が5.7メートルの正方形の水盤があります。その中心に、水面に浮かぶかたちで「鎮魂の碑」を設置し、鈴木俊一元知事の書による「鎮魂」の文字が刻まれています。

碑文の写真です
碑文

(2)碑文
  縦75センチメートル、横90センチメートル、高さ40センチメートルの黒御影石
  前方の碑石には、鎮魂と平和への思いをよせた文章が、井上靖氏撰書により刻まれています。
  『悲しい海、悲しい空、今日も眞青く澄んでいます。あなた方の悲しい死によって、あなた方の悲しい死をとおして、私たちは今、漸くにして一つの考えを持つことができるようになりました。
  もう自分一人の幸福を求める時代は終った。ほかの人が幸福でなくて、どうして自分が幸福になれるだろう。
  もう自分の国だけの平和を求める時代は終った。ほかの国が平和でなくて、どうして自分の国が平和であり得よう。
  あなた方の悲しい死に対して、私たちは今、こうした私たちの考えを捧げたいと思います。そして今はただ祈るばかりです。
  御霊、とこしなえに安らかれと。井上靖』

由来文の写真です
由来文

(3)由来文
  高さ80センチメートル、横110センチメートル、奥行30センチメートルの黒御影石
  後方の碑石には、東京都が鎮魂の碑を建立に至った由来が、山本健吉氏撰書により刻まれています。
  『東京の南方、1250キロの洋上に硫黄島は浮ぶ。東京都に属ずる。明治20年(1887年)時の東京府知事、無人の島に初めて足跡を印したが、昭和19年より20年(1945年)に至り、この島を舞台に日米両国は激しい死闘を演じた。死守を誓った日本軍二万余、島民数十名、おおむね空しく、上陸を決行した米軍の戦死者七千を加えて、計三万が戦いに果て、島は巨大な墳墓と化した。歌人釋迢空が「最も苦しき戦いに最も苦しみ死にたる子ら」と嘆じたように、水と糧に乏しい島の、噴出する硫気とむせかえる地熱の壕を拠点とした苦しい戦いは、ほとんど肉体の限界を超えていた。
  東京都知事鈴木俊一は、彼等の無韻の慟哭を心に聞き、その慰撫鎮魂と明日への平和祈念のため、この地に建碑のことを発願した。建築家相田武文に設計を、詩人井上靖に碑銘の撰定を乞い、ここに除幕の式典を執り行う。ありし日の怨讐を超え、瞋恚を棄てて、この島に戦った者の親、妻、子、またすべての同胞たち、共に手を握り、盃を挙げ、死者たちの無念の思いを無にせぬことを誓い集う。不文の文士山本健吉、求められて蕪辞を連ね、事の顛末を記す。昭和58年9月9日』

歌碑の写真です
歌碑

(4)歌碑
  「赤城小松」という安山岩
  「鎮魂の碑」に向かって左側の繁みの中に、歌人釋迢空(折口信夫)が、この丘のある南地区で戦死した、養子春洋氏を偲んで詠んだ歌を刻んだ碑が建てられています。書は草野心平氏です。
  『硫気噴く島「たたかひに 果てにしひとを かへせとぞ 我はよばむとす 大海にむきて」釋迢空』

3 追悼式

参列者席から望む摺鉢山の写真です
参列者席から望む摺鉢山

先の大戦における東京都小笠原村硫黄島で戦没した全ての方々の慰霊、関係遺族の慰藉及び平和祈念のために、都主催の追悼式を行っています。それに伴い、都内にお住まいの御遺族の方を対象に参列者の募集を行っています。式典日時、申し込み方法等は、広報東京都4月号又はその頃の福祉局ホームページを御覧ください。

4 硫黄島での戦闘

  昭和20年2月19日に米軍が上陸開始、その時の日本軍は約21,200名の兵力でした。米軍の物量作戦を前にし、全島要塞化を図り、地下10~20メートルに総延長18キロメートルに及ぶ地下壕を構築して持久作戦に備えました。本土からの補給は絶たれ、水、食糧、兵器の乏しい中で1か月以上に及ぶ凄惨な戦いを展開し、当時の飛行機航続距離の性能から同島の戦略的価値は高く、兵士は死守を覚悟していました。
  昭和20年2月16日 艦砲射撃を開始
  昭和20年2月19日 米軍が上陸を開始
  昭和20年3月17日 日本軍の通信が絶える。
  昭和20年3月26日 栗林兵団長は残存兵力を率いて総攻撃を行う。

5 島の概要

  硫黄島は、数千年前の海底火山の活動で海底に火山砕屑物が堆積し、それが隆起して誕生したといわれています。
  明治22年 硫黄採取のため10余名が移住
  明治24年 日本領土となる。
  昭和19年 強制疎開により硫黄島1,004名、北硫黄島90名が本土に引揚げ、青年男子約100名は軍属として残留した。(人数は小笠原村HPより)
  昭和43年6月26日 米国より返還

  東京から南方約1,250キロメートル、父島から約250キロメートルに位置し、面積は約22平方キロメートルあり、北区や新島とほぼ同じです。地形は、摺鉢山を要として北東に約8.3キロメートル 最大幅約4.5キロメートルの扇形をしています。河川は全く存在しないうえ、火山活動の関係で地下水は期待できず、天水を利用しており、あわせて海水を淡水化して使用しています。火山活動は、全島にわたって活動が続いています。隆起現象は大きいところで年平均30センチメートルに及ぶほか、断層や噴気孔が点在し、小規模な水蒸気爆発が繰り返されています。
  また、隆起現象がはげしく、恒久的な施設(港等)の建設は不可能に近いです。住民は、昭和19年調査で216世帯1,164人、甘藷の栽培及び加工に従事していましたが、昭和19年7月戦局の進展に伴い本土に疎開しました。現在、海上自衛隊、航空自衛隊、鹿島建設株式会社等工事関係者が常駐しています。

お問い合わせ

このページの担当は 生活福祉部 企画課 援護恩給担当(03-5320-4078) です。

本文ここまで


以下 奥付けです。